飯嶋和一『汝ふたたび故郷へ帰れず』――『クリード』で滾った人にオススメの傑作ボクシング小説

クリード』を観た。素晴らしかった。ボクシングは、何故、人をああも熱くさせるのか。俺もトレーニングしたりリングに上がったりしてみたくなったが、俺なんかがリングに上がったらまず確実に死ぬし、そもそも突然走ったり腕立て伏せするだけでも危険そうなので、かわりに『汝ふたたび故郷へ帰れず』を読んだ。個人的には、最高のボクシング体感小説である。

江戸時代にグライダーを作って空を飛んだ鳥人備前屋幸吉を描く『始祖鳥記』や史上最強の横綱を主人公にした『雷電本紀』など、書く小説書く小説全部、傑作な飯嶋和一先生の初期の作品。

ストーリーは、一度はリングを降りて酒におぼれたプロボクサーが、故郷の孤島に里帰りした先で、長年付き合った老トレーナーの死を知り、再びリングに上がるというシンプルなもの。
文体も、主人公であるボクサーの木訥な人柄をそのまま現したような、最低限の形容詞だけで成り立ったような文章で、いわゆる美文では全然ない。むしろ素っ気なささえ感じる。

じゃあそんな小説の何処が面白いのかというと、この小説、一切、省略しない。起ったことを全部書く。ボクサーが普段どういう練習をするかとか、減量の時何を食うかとか、練習以外の仕事の時は何してるのか、とか。全部克明に書いてある。
もう一度繰り返すけど、一切省略しない。起きたことを全部書く。
試合についても。
マジで。
1ラウンドの間に、リングのなかでどんな駆け引きがありどんな動きがあり何を考え何を感じたか、3分間――180秒×最後のラウンドまでの出来事が、決着つくまで全部書かれてる。本当に全部だよ。

『タカシ。落ち着けよ。頭振って。頭振って』ヤツのコーナーから声が飛んだ。ヤツは肩を揺すって混乱している自分のリズムを立て直そうとしていた。ヤツも左ジャブで追うことを思い出したようだった。一つ目のジャブはバックステップで後ろへ下がり、二つ目のジャブの時踏みとどまって左へダッキングしながら右のロングフックをクロスで合わせた。ヤツのバランスが崩れたところへ左フックをテンプルに打ち込んだ。そのまま追えないことはなかったが、右をのばして距離をとった。ヤツがまた頭に血が上り、左フックを振るってきた。次に大きな右を持って来るのは目に見えていた。わざとバックステップで下がり左をかわして、ヤツの右肩が一瞬下がるのに合わせ、左ストリートを真っすぐ突き出した。同時に打ってもフックよりストレートの方が速く当たる。カウンターでヤツの顔面を捕らえた。また深追いせず、そのまま距離をとって、顔面へ速いジャブをおれは送り、足を使って左へ移動し続けた。
飯嶋和一『汝ふたたび故郷へ帰れず』)

 

これ、本作の試合シーンのほんの、ほんの一部。序盤も序盤の、1ラウンド目。全体はこの数十倍。この調子で決着がつくラウンドまで、起ることを全部、ありのままに書いてある。最後まで、この密度で。延々。マジだよ。マジで。
僕今、このシーン書き写しただけで息が詰まって死にそうなのに、一体、どんな経験して、どんな観察眼があって、それより何より、どんな体力があれば、これだけの密度の戦闘シーンを延々数十ページにわたって書き続けられるのか。意味がわからない。すごすぎる。信じられない。リングに立って戦い続けるというのがどういうことかというのを文章の密度でもって思い知らせてくれるボクシング小説。超オススメ。で、もしこれを読んで気に入ったら、飯嶋和一先生の本は全部読むと良いと思う。全部面白いので。

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